第五話 小説のプロセス:吉田の場合

 

 よく読者の方から,小説の書き方について問われることがある.オリジナリティが大切なので,内容については他人の意見などきかないほうがいいのかもしれない.だからどんなプロセスで小説を書いているか,私の場合をちょっとだけ書いてみます.

 小説を書く時,はじめに悩むのがキャラクターの名前だ.(ちなみに最後に悩むのは本のタイトルである,私の場合)それからプロットをたてる.あらすじのようなもので,私はキャラクターの名前と年齢と簡単な説明を最初のほうにちらっと書いてから,ストーリー説明を書く.プロットの形式は人により本当にさまざまで,どれがいいというものでもない.大まかな筋だけ決めて,結果は最後まで書いてみないとわからないという人もいるが,私はできる限り細かく,進行上の事件を羅列していく.プロットが細かい方が,絶対といっていいほど執筆が速くなるからだ.執筆期間は私の場合,文庫一冊分(400字で300~350枚くらい)を一ヶ月~二ヶ月.これも人によって全然違う.

 

 執筆段階で困ることは,登場人物それぞれの立場にたってリアクションをしなければならないことである.作者は事件の真相を全て知っているので,「はて,このキャラクターはこの事実を知って驚くか否か(それを知っているか否か)」を熟考しなければならない.簡単なように聞こえると思うが,何度か軌道修正をしたりしているとこんがらがってしまうものである.仕上がってからそういったミスを見つけると,はじめから微調整をして,伏線のはりなおしもしなくてはならないから,大ざっぱな性格の私にはなかなか辛い作業だ.それで初稿は上がり.後は直しの指令を待つ.で,一応適当に抵抗したりしながら直しを入れる(人によっては無抵抗な人もいるかも).細かい直しでは,セリフがどのキャラのものかが絶対に読者にわかるように気をつける.他者の作品を読んでいて,誰のセリフかわからない時,すごく落ち着かなくて「頼むよ~」って気持ちになるからだ.それから日本語文法.吉田はよくこれでミスをする(泣).

 さて,完成稿が上がり,入稿する段になって,タイトル決めという作業があって(イヤ,本当は初稿を送る時点で決まってなくちゃいけないのかもしれないが),私はこれがとても苦手だ.一発で決まったためしがない.近頃では担当さんも用心のためにあらかじめ救済措置としてひそかにタイトルを用意してくれているのではないかという気がする.キャラクターの名前も考えるのが苦手で,……私は司祭にならなくてよかったなあとつくづく思った(なりたくてもなれないのだが).司祭って名付け親になったりするし.

 しかし,そうこうしてできあがり,発行を待つ時に,いちばん楽しみなのはイラストだ.ゲラ刷りにイラストの位置の指定があるから,どのシーンにイラストが入るかということはわかっている.「ほほう,このシーンが絵になるのか」「ぎょえっ,こんな怖いシーン,どうやって描くんだろう」などと想像するのがとっても楽しい.

 とまあ,こんなふうに七転八倒しながらアドリアンたちのストーリーは生まれます.                               (1998.4.10)


第六話 なんでホラーなの?

 

私は最近,ジュブナイルでもっぱら中世ホラーを書いています.

なんだか分類上はファンタジーでもない,SFでもない,ボーイズラブでは絶対ないし,よくわからないので結局少女小説なのかな,などと自分でもわけのわからない物を書いております.

たまに雑誌でホラー短編を書けと言われるのですが,なんでホラーを書けと言われるのかよくわかりません.活字になってないけど,デビューのきっかけになった投稿小説(中世ロマンだったはずなのになあ)の中にちょっと不気味なシーンがあって,死体が出てきたんですが,どうもそれがホラーっぽかったようです.

私は生き物が好きなので,死体にわいた**(皆さんの食欲が落ちるといけないので伏せ字)の描写に妙に熱が入ってしまったんです.ああいうものってよく見ると,結局カブトムシやクワガタの幼虫と一緒で内臓が透けて見えるんですよね.鼓動がその動きによってわかるんですよ.それで,ああ,こいつら,ちゃんと生きてるじゃないかって感動した記憶があって…….でもそれは生物への愛着であって,別に読者を気味悪がらせようと思って書いたわけじゃなかったのですが(ちなみに私はクワガタを6年にわたって飼育し,繁殖にも成功したことがあります.クワガタはカブトムシより成虫になるのに年月がかかるのです……そんなことはどうでもいいのですが). 

 そんなわけで,霊感もないのに死霊を描くのが大変なのです.でもリアルには書きたい.それでどうするかというと,死体をリアルに書いてしまうんです.書棚にはそれ関係のアヤシイ本が並んでいて,死亡時刻から何時間たってるこのシーンは死斑がどうなってるか,眼球の色はどうなってるか,硬直の様子はどうか……ということを調べながら書くので,きっと読者が読んで思うより怖い思いをしながら書いています.夜中にそういった写真資料を見るのはとても気味が悪いです,ほんとに.

 読者の人やお友達から,某大学で「拷問展」をやっているからぜひ見てください,などと言われてしまうし(もちろん見ましたが).

 

 ところで昨年末,パソコンとスキャナとプリンタを駆使してファンに出す年賀状を作ろうとしました.どうせなら宣伝も兼ねて自分の著作のタイトルを載せようと思ったんですが,「死者の告白」だの「剣を抱く……」だの,お正月にそりゃあないぜ,というようなタイトルばっかり(泣).今年こそはひとつ縁起のいいタイトルの小説を書こうと心に誓いました(でもきっと無理であろう).

 

 いつかどこかで吉田の小説を見かけた方,あるいは読んでくださった方,こんな怖い思いをして書いている吉田に励ましのお便りをください.心霊写真はいらないですけどね!

 

 (1998.7.7/季刊『QuickSand』1998年春号 Vol.18に掲載 )


第七話 「絶対音感」なんてないのだ、私には。

 

「絶対音感」とは、楽器に頼らずとも音程がわかるということらしい。絶対音感のある人は、カラスの鳴き声(好きだな、私も)とか、ラーメン屋のチャルメラの音、パトカーの音などを聞いても階名が浮かぶそうだ。残念ながら、私にはそれがない。音叉を常に持ち歩いて訓練すれば培われるのだろうか。

今、私は胡弓(こきゅう)という楽器を習っているが、これもヴァイオリンほどではないが、絶対音感が必要だ。胡弓の中でも、習っているのは二本の弦をもつ二胡(にこ)という種類だ。弦は二本。その間に弓が挟んである形になっているので、そそっかしい私でも弓を忘れるということがない。弦が切れない限り弓と胡弓は離れない格好なのだ。二本の弦をチューニングすればいいので弦楽器としては楽なほうだと思う。しかし、その二本の調弦を怠ると、とんでもない音になる。

 ちなみに、私はわりと練習熱心なほうで、毎日同じ曲を何十回も練習していたら、飼っているモルモットが脱毛症になってしまった。自分で体毛を引き抜いていた様子から、つまり私の胡弓の練習の騒音によりストレスが高まったのだろう。ごめんよ、モルモット。

 家族が同じ部屋にいる時にも、私はかまわず練習をする。

 先日も思い切り音をはずして自分でも悶絶した。あまりのひどさに、家族の罵倒が飛ぶのではないかと身構えるが意外にも静かだ。ふと振り返ると、娘がばったりと倒れて痙攣していた。いつになったらウーロン茶のコマーシャルや中華料理屋のBGMみたいな美しい演奏ができるのであろうか。

 ところで私は昨年、何度も書き直した小説が全没になってすごく悲しい思いをした。

 なんとその隠しテーマが、「音を外すと死ぬ」というものだった。

 中世ヨーロッパを模した少女小説で、中世の学生が主人公という物語だ。

 ヴァイオリンはまだない時代なので、その前身の「フィドル」という楽器をモチーフにして事件が起こるのだが、音を外すと死ぬという殺人フィドルを書いて、それが全没。やはり設定に無理があったのかなあ、と今は思うのだが。 こんな設定を思いついたのには理由がある。私のトラウマとも言える。

 私は高校と短大時代に合唱部に所属していたのだが、高校2年に指揮者というスタッフになってから、音の狂いを聞き分けて注意しないと先輩や卒業した合唱部出身者たちからつるし上げをくうという恐ろしい体験をした。夏合宿にもOBたちはやってくる。

彼らは緊張しまくっている現役の部員が練習している後ろをぐるりと取り囲んで見学している。で、シンコペーションのリズムが甘い、とかテナーが音が下がっているのになぜ直さないのだ、などと指導される。こわい。夏合宿の最中に自信喪失して人知れず泣く、というのは毎年見られる風景だ。そんなふうなトラウマが無理な設定の小説を産んだが、あえなく却下された。

つい二ヶ月ほど前に完成した「わらべ唄」のCDについても、無伴奏合唱曲だったために、収録後の修正が難航した。伴奏から音を拾えないので、微妙に音程がずれる。だから切り貼りして修正しようとしても音程が合わないので、ほとんどライブのような仕上がりになったと思う。

絶対音感は持ち合わせていないが、今日も私は胡弓を練習する。

悶絶する家族とストレスのたまるモルモットを気遣いながら。

こんな苦労を察してか、胡弓の先生は「胡弓のカラオケ」と称して奥さん演奏の胡弓練習用伴奏のカセットテープをくれた。音が拾えるのでとても調子が良い。

そうだ、カラオケ殺人事件なんてどうかな。点数が出るという嫌みなカラオケに細工をして、音を外すとカラオケの機械が爆発するという……あ、だめですか……やっぱり……。

 

                 (1998.8.10. QuickSandに掲載)


第八話 暦と世紀末

 

暦はおもしろい。

昨年10月に出た「すすり泣く写本」には暦について少し触れてあるが、私は暦とか写本に目がない。(というのは「マスカレードの長い夜」を読んだ人にはよくわかると思う)その時代の人々が自然の流れとどうかかわったか、どういう迷信を信じていたのか、どんなまじないをしていたか、などということが読みとれて、しかもたいてい鮮やかな挿し絵つきなので、中世の参考資料としても役に立つ。

 この頃世紀末を意識した本の刊行が増えてきた。ノストラダムスの大予言の関連のものも多いが、さすがに現代人はパニックを起こすほどは世紀末に振り回されていない。ところが中世はどうだったかというと、「ラ・ロシュフーコー公爵傳説」に興味深い記述がある。これは17世紀フランスの名門貴族によって書かれたものだが、彼は、17世紀の自分のことよりまず、自分の家系が最初に教会の記録に現れた980年から書き起こしている。20世紀末の今の不景気などという生ぬるいものではなく、10世紀末のフランスは、ペスト、旱魃、飢饉、略奪の連続の上、大彗星の出現、日蝕あり月食ありだった。人間は滅びる、というデマが流れ、人々はヤケを起こして仕事を放りだし、群盗と化した。戦々恐々として迎えた1000年には、大きな災害はなにも起こらなかった。それでもすぐには人々の不安はぬぐい去ることができず、人々が心の平安を取り戻し、それぞれの仕事に戻って元の暮らしにかえるまで数年を必要としたという。1000年前の人々の世紀末をこれほど鮮やかに語ってくれて、ロシュフーコーさん、ありがとうねと言いたい。

 10世紀末関連で、もうひとつ。ベアトゥス黙示録という写本がある。10世紀後半、北スペインの修道士ベアトゥスが黙示録の終末のヴィジョンを記した。近年刊行されたのは、ファンクドゥスという写字生の手による写本である。力強い色彩の挿し絵は、ゴヤ、ミロ、ピカソなどに大きな影響を与えたといわれている。イスラームとキリスト教の激しい対立と、至福の千年の思想が反映されている。天使と悪魔が闘っている光景などは、赤、白、黒の鮮烈な色を基調にしていて、デザイン的にも見事だ。じっと見ていると、細やかな描写がおもしろく、訴求力の強さが感じられる。21世紀を目前にした現代人にも強く語りかけるものがある。至福の千年の思想が、正確な暦を求めようという動きにつながったので、これも暦と無関係とは思えないのである。奇しくもこの時期には、西暦とは無縁の仏教圏においても末法思想が流行ったという。

 歳時暦に話を戻そう。キリスト教世界では毎日が聖者の記念日だ。中世後期、うるう年の換算の関係で春分の日付がズレてきていることが懸念されていた。春分は復活祭の日付のもとになっているのでキリスト教において重要だったのだ。さかんに改暦が試みられた結果、16世紀末にグレゴリオ暦が制定された。それ以前のユリウス暦は○月×日というのではなく、3月の朔の日からさかのぼって何日目、などというあまりにも複雑なものだったため、聖者の記念日を併記した時祷書が各地で作られた。

 時祷書といえば、14世紀フランスの「ベリー侯の豪華時祷書」などは構成、飾り文字、絵、どれも目を見張る美しさだ。挿し絵のこまごまとしたディティールなんかもう、物書きにはたまらないおいしさだ。

 仏教・神道方面でももちろん興味深い暦がある。初詣に始まり2月の節分、3月の雛祭り、お水取りなど。4月の花祭りはキリスト教のクリスマスに匹敵する大イベントだが、なぜかこの日を大切な人とすごそうなどという習慣は見られないようだ。「お釈迦様の誕生日は僕と一緒に甘茶でも飲まないか、ハニー」なーんていう口説き文句は……聞かないな、やっぱり。斬新で良いと思うが。

 日常を克明に綴った文献というのは民俗学的にも貴重だ。その地域の文化や歴史を如実に反映している。今そこにある家計簿やシステム手帳も500年後には第一級史料になる可能性を秘めている。だから暦はおもしろい。

 さて、まもなくやってくる20世紀末を現代人はどう迎えるのか。その瞬間を見届ける世代に生まれたのはとってもラッキーだと思う。何か書き残さなきゃ、とは思うけど、ロシュフーコー氏みたいなすごいのは書けそうもないし……とりあえず文章修行して腕を磨くべきかな?          

(1999.1.15)